地獄は四角い | 劇評
丘田ミイ子

 

SHOW MUST “NOT” GO ON ―されど名村は下北でー

 
 

 
 
俳優・名村辰を初めて見たのは忘れもしない2022年の年明け、東京芸術劇場で上演されたモダンスイマーズの『だからビリーは東京で』だった。名村演じる大学生の凛太郎はミュージカル『ビリー・エリオット』に感銘を受けて俳優を志し、とある劇団の門を叩く。そこで様々な洗礼を受けるも舞台に立つことは叶わぬままコロナに突入、劇団はそのまま解散という皮肉なまでにタイムリーなストーリーだった。演劇と時代の荒波に翻弄される若者の心中を瑞々しく、その戸惑いや葛藤も露わに演じた名村の等身大の姿に心を打たれた私は観劇後すぐさま名村辰の出演作を調べた。驚いたのは、舞台でのキャリアがまださほど長くなかったことだ。名村は凛太郎であり、ビリーそのものであると思った。ニューフェイスでありながら、玄人の俳優陣に引けを取らない表現力、今後の活躍に期待を寄せずにはいられない存在感だった。
それから2年の時が経ち、その名を「旗揚げ公演」「作・演出」のクレジットに見かけた時には驚いた。それこそが、namu『地獄は四角い』である。物語の舞台はまたしても演劇の現場だ。劇団が解散するまでの日々を描いた『だからビリーは東京で』に対し、『地獄は四角い』は劇団を旗揚げし、公演を“打とうとする”男の物語だった。つまりそれは名村自身の話なのかもしれなかった。本公演は無事終幕したが、劇中の公演は出演者の不祥事を主なきっかけに中止という結末を迎える。旗揚げ公演に旗揚げができない物語が当て書きされた本作は言うまでもなく、演劇をやることへの希望ではなく、絶望にフォーカスした作品であった。そして、私は記念すべき旗揚げにその絶望こそを主題に選んだ若き劇作家、そして俳優・名村辰に「されどもここで生きていく」という強い覚悟を見出した様に思う。
 
客入れ、前節から物語はすでに始まっていた。上演諸注意を告げる江原パジャマは江原としてではなく、劇中の旗揚げ公演の主宰・蛯原としてそこに立っていた。しかし、その時にはまだ誰もそのことには気付かない。前節後には劇中劇が繰り広げられる。シチュエーションスリラー映画『CUBE』を思わせる、“四角い”密室に閉じ込められた3人の俳優が生き残りを賭けたゲームに興じる。賭けるのは、命は命でも俳優生命らしい。骨肉の芝居争いが展開するのかと思いきや、蛯原がストップを掛けたことでそれが劇中劇、すなわち旗揚げ公演の稽古風景であることが分かる。出演俳優は最年長の木也(柿丸美智恵)、その劇団時代からの後輩で中堅の尾崎(松本哲也)、そして、映像出身の若手俳優でインフルエンサーとしても活動する椎名(青山美郷)である。椎名は蛯原と恋人関係にあるが、「彼氏作演の舞台に出る女、嫌なの。作演舞台に彼女を出す男とかファックファック」とそのことを隠す。「舞台の人って当たり前みたいにそういうことするイメージ」と身内の交友関係で成り立つ演劇界を倦厭しながら、自身のキャリアステップとしては切り分けて引き受け、後のチャンスをも切り拓く椎名の存在は全編に渡って皮肉な、そして同じ女性としては時として痛快さも禁じ得ないリアリティを滲ませていた。
“皮肉なリアルさ”。これには枚挙に遑がない。蛯原は演劇では生計が立てられず、コールセンターで働いていることもあり、開幕が差し迫るも台本は冒頭しか書き上がっていない。暗雲に拍車をかけるかの様に発覚するのが尾崎のコロナ疑惑、にも関わらず尾崎は蛯原に内緒で椎名との浮気行為に及び、挙句、木也の劇団時代の問題言動(劇中でその詳細は語られないが前後文脈を察するにハラスメント)が公になる。個人の告発によって過去の加害が明るみになる木也と年下俳優を性行為に誘う尾崎の存在は言うまでもなく、現在の演劇界で確かに起きている問題を示唆しているだろう。そこから舞台上の稽古場は、劇場は、“四角い地獄”へと化していく。
間も無く旗揚げ公演は中止へ、負債だけが手元に残った蛯原はアルバイターとして日々を送る。そんな中蛯原は、謝罪を表明した後地元に帰った木也に電話をかける。木也の独白シーンでは彼女が俳優として成り上がる過程、そして、アップデートが及ばず時代に取り残される姿が描かれた。生い立ちが俎上に載せられた瞬間に別人の様に玄人オーラを紛失させる柿丸美智恵の変幻が見事な一幕であった。電話口で蛯原は旗揚げ公演を妄想しながら、木也に「客入れの雰囲気からめっちゃ考えてました」と前述の前節をリフレインして見せる。円環構造を遂げるその演出でようやく冒頭の江原扮する蛯原の上演諸注意がただの前節ではなく、物語の一部であったことが詳らかになる。責任を感じる木也がもう一度別メンバーで旗揚げを仕切り直すことを勧め、それに対して言い聞かせるように首を振る蛯原が一際強く「嫌です!」と言ったところで暗転、小さく震えるその肩を取り残したまま、四角い舞台は闇の中へと崩れるように溶けていく。
 
前節に始まり、前節に終わる上演。「本番」が奈落へと抜け落ちた様なその物語は、荒々しいまでに虚実皮膜の演劇だった。コロナとともにコロナ禍という言葉は生まれたが、ハラスメントとともにハラスメント禍という言葉はない。あってはならない。そんな時、「SHOW MUST GO ON」なんて格言はご都合主義の戯言である。そんなことを大前提にしながら、そのことによって巻き込まれていく人々を、そして、そこに隠されている様々を炙り出すことをやめなかったのがこの演劇であった。「SHOW MUST GO ON」の美しさよりも「SHOW MUST “NOT” GO ON」のやるせなさを捉えて離さなかったこの作品は、非常に勇気の有する演劇でもある。しっかりと書き、演じなければ、加害を擁護する作品にも成りかねない題材を含んでいるからだ。しかし、少なくとも私は、本作はそこを飛び越えた、いや、そこに終始しない作品であると感じた。(もう演劇など)「嫌です!」と震える蛯原には確かに数多の被害者の姿が重なる。しかし、それだけではない。そうはさせなかったところに本作のもう一つの核心があった。
台本が書けず、稽古場での反応にも打ちひしがれた蛯原はどこかで中止に胸を撫で下ろしていたのだ。そのことは皮肉にもハラスメント問題に隠される形となって、蛯原自身とその独白を聞いた私たち観客にしか知られないまま、彼は劇中の世間において永遠に「被害者の一人」でいられるのである。
木也の過去の言動は劇中で明言されないが、読み上げられた謝罪文にこんな一文があった。
「自分が一番奪われたくないものを、他人からは奪っていた」
その言葉は、台本を書けないままに俳優や姿は見えないが必ずいたであろうスタッフたちを振り回した蛯原自身の罪も貫いているのではないだろうか。旗揚げを全うすることをいつしか、ともすれば誰よりも早く諦めていた蛯原の狡く、情けない、本当の姿をも。
公演中止のもう一つの真実を目の当たりにして改めて思う。稽古場や劇場の中に、そして外にどんな真実があるのか、どれほどの喜びと、そして地獄があるのか、私には到底分からない。しかし、四角い密室に突如閉じ込められたあの劇中劇の俳優たちは、劇場でそれを目の当たりにする私たち観客そのものでもあったのかもしれない。演劇を消費する以上、何一つが全くの無関係ではないという意味で。
 
リスクを忌避せず、演劇、ないしは業界の明部ではなく暗部を、希望ではなく絶望を、天国ではなく地獄を映した本作である。旗揚げ公演で旗揚げ公演が飛ぶ話を上演。そんな縁起でもないことをやらねば、と思った所以は、きっと名村がこれまで演劇に費やした当事者としての日々に裏打ちされているのだろうと想像する。“四角い”舞台や稽古場に身を置く彼自身が日々感じていること。そんな思考と葛藤がなだれ込んでくるような感覚でもあった。「今、演劇をやること」に懐疑的な視点をも携えながら、それを自らに問い、そして応答すること。正解は分からずとも応答してみようとすること。これが「旗揚げ公演」であることにもやはり大きな意味がある。それは、「ここを描かずして、旗など揚げられるか」といった名村自身の決意であり、覚悟なのではないだろうか。
そして、俳優陣の身体の底から惜しみなく放出されたリアリティにも改めて拍手を送りたい。セリフと本音の境界がボーダレスになっていくのを感じたあの瞬間。「俳優」という性を、道を持つ者が本作の台詞を言う限りそうなってしまうことは、ともすれば宿命の様なものなのかもしれない。同時に、時には自身のこれまでの生き方を切売りするような節もあったかもしれない。それらをあくまで「虚構」として昇華する俳優陣の実力が揃わなければ、それこそ、この「旗揚げ」は完遂しなかった様にも思う。
 
生身の人間が集わないと行えない演劇というものが孕む多くの不可能性。それは、可能性を揚々と掲げることよりも痛く、苦しい時間であったに違いないが、その不可能性を顧みることは今、非常に必要なことに思う。「SHOW MUST GO ON」を叫ぶ演劇は数多あるが、「SHOW MUST “NOT” GO ON」を、その選択を取るまでを描いた演劇は数少ない。クローズドな稽古場とオフィシャルな劇場、その双方で起き得るあらゆる事象に焦点を当て、「されども、ここから」と名村は旗を揚げる。溶暗していく劇場、舞台の上で震える男の肩にその切実を重ねる。私はそれを見届けた。四角い地獄の後に訪れた確かな明転のその中で。


 


 
◉作品詳細 ▶︎


 

地獄は四角い | 劇評
丘田ミイ子

 

SHOW MUST “NOT” GO ON
―されど名村は下北でー

 

 
俳優・名村辰を初めて見たのは忘れもしない2022年の年明け、東京芸術劇場で上演されたモダンスイマーズの『だからビリーは東京で』だった。名村演じる大学生の凛太郎はミュージカル『ビリー・エリオット』に感銘を受けて俳優を志し、とある劇団の門を叩く。そこで様々な洗礼を受けるも舞台に立つことは叶わぬままコロナに突入、劇団はそのまま解散という皮肉なまでにタイムリーなストーリーだった。演劇と時代の荒波に翻弄される若者の心中を瑞々しく、その戸惑いや葛藤も露わに演じた名村の等身大の姿に心を打たれた私は観劇後すぐさま名村辰の出演作を調べた。驚いたのは、舞台でのキャリアがまださほど長くなかったことだ。名村は凛太郎であり、ビリーそのものであると思った。ニューフェイスでありながら、玄人の俳優陣に引けを取らない表現力、今後の活躍に期待を寄せずにはいられない存在感だった。
それから2年の時が経ち、その名を「旗揚げ公演」「作・演出」のクレジットに見かけた時には驚いた。それこそが、namu『地獄は四角い』である。物語の舞台はまたしても演劇の現場だ。劇団が解散するまでの日々を描いた『だからビリーは東京で』に対し、『地獄は四角い』は劇団を旗揚げし、公演を“打とうとする”男の物語だった。つまりそれは名村自身の話なのかもしれなかった。本公演は無事終幕したが、劇中の公演は出演者の不祥事を主なきっかけに中止という結末を迎える。旗揚げ公演に旗揚げができない物語が当て書きされた本作は言うまでもなく、演劇をやることへの希望ではなく、絶望にフォーカスした作品であった。そして、私は記念すべき旗揚げにその絶望こそを主題に選んだ若き劇作家、そして俳優・名村辰に「されどもここで生きていく」という強い覚悟を見出した様に思う。
 
客入れ、前節から物語はすでに始まっていた。上演諸注意を告げる江原パジャマは江原としてではなく、劇中の旗揚げ公演の主宰・蛯原としてそこに立っていた。しかし、その時にはまだ誰もそのことには気付かない。前節後には劇中劇が繰り広げられる。シチュエーションスリラー映画『CUBE』を思わせる、“四角い”密室に閉じ込められた3人の俳優が生き残りを賭けたゲームに興じる。賭けるのは、命は命でも俳優生命らしい。骨肉の芝居争いが展開するのかと思いきや、蛯原がストップを掛けたことでそれが劇中劇、すなわち旗揚げ公演の稽古風景であることが分かる。出演俳優は最年長の木也(柿丸美智恵)、その劇団時代からの後輩で中堅の尾崎(松本哲也)、そして、映像出身の若手俳優でインフルエンサーとしても活動する椎名(青山美郷)である。椎名は蛯原と恋人関係にあるが、「彼氏作演の舞台に出る女、嫌なの。作演舞台に彼女を出す男とかファックファック」とそのことを隠す。「舞台の人って当たり前みたいにそういうことするイメージ」と身内の交友関係で成り立つ演劇界を倦厭しながら、自身のキャリアステップとしては切り分けて引き受け、後のチャンスをも切り拓く椎名の存在は全編に渡って皮肉な、そして同じ女性としては時として痛快さも禁じ得ないリアリティを滲ませていた。
“皮肉なリアルさ”。これには枚挙に遑がない。蛯原は演劇では生計が立てられず、コールセンターで働いていることもあり、開幕が差し迫るも台本は冒頭しか書き上がっていない。暗雲に拍車をかけるかの様に発覚するのが尾崎のコロナ疑惑、にも関わらず尾崎は蛯原に内緒で椎名との浮気行為に及び、挙句、木也の劇団時代の問題言動(劇中でその詳細は語られないが前後文脈を察するにハラスメント)が公になる。個人の告発によって過去の加害が明るみになる木也と年下俳優を性行為に誘う尾崎の存在は言うまでもなく、現在の演劇界で確かに起きている問題を示唆しているだろう。そこから舞台上の稽古場は、劇場は、“四角い地獄”へと化していく。
間も無く旗揚げ公演は中止へ、負債だけが手元に残った蛯原はアルバイターとして日々を送る。そんな中蛯原は、謝罪を表明した後地元に帰った木也に電話をかける。木也の独白シーンでは彼女が俳優として成り上がる過程、そして、アップデートが及ばず時代に取り残される姿が描かれた。生い立ちが俎上に載せられた瞬間に別人の様に玄人オーラを紛失させる柿丸美智恵の変幻が見事な一幕であった。電話口で蛯原は旗揚げ公演を妄想しながら、木也に「客入れの雰囲気からめっちゃ考えてました」と前述の前節をリフレインして見せる。円環構造を遂げるその演出でようやく冒頭の江原扮する蛯原の上演諸注意がただの前節ではなく、物語の一部であったことが詳らかになる。責任を感じる木也がもう一度別メンバーで旗揚げを仕切り直すことを勧め、それに対して言い聞かせるように首を振る蛯原が一際強く「嫌です!」と言ったところで暗転、小さく震えるその肩を取り残したまま、四角い舞台は闇の中へと崩れるように溶けていく。
 
前節に始まり、前節に終わる上演。「本番」が奈落へと抜け落ちた様なその物語は、荒々しいまでに虚実皮膜の演劇だった。コロナとともにコロナ禍という言葉は生まれたが、ハラスメントとともにハラスメント禍という言葉はない。あってはならない。そんな時、「SHOW MUST GO ON」なんて格言はご都合主義の戯言である。そんなことを大前提にしながら、そのことによって巻き込まれていく人々を、そして、そこに隠されている様々を炙り出すことをやめなかったのがこの演劇であった。「SHOW MUST GO ON」の美しさよりも「SHOW MUST “NOT” GO ON」のやるせなさを捉えて離さなかったこの作品は、非常に勇気の有する演劇でもある。しっかりと書き、演じなければ、加害を擁護する作品にも成りかねない題材を含んでいるからだ。しかし、少なくとも私は、本作はそこを飛び越えた、いや、そこに終始しない作品であると感じた。(もう演劇など)「嫌です!」と震える蛯原には確かに数多の被害者の姿が重なる。しかし、それだけではない。そうはさせなかったところに本作のもう一つの核心があった。
台本が書けず、稽古場での反応にも打ちひしがれた蛯原はどこかで中止に胸を撫で下ろしていたのだ。そのことは皮肉にもハラスメント問題に隠される形となって、蛯原自身とその独白を聞いた私たち観客にしか知られないまま、彼は劇中の世間において永遠に「被害者の一人」でいられるのである。
木也の過去の言動は劇中で明言されないが、読み上げられた謝罪文にこんな一文があった。
「自分が一番奪われたくないものを、他人からは奪っていた」
その言葉は、台本を書けないままに俳優や姿は見えないが必ずいたであろうスタッフたちを振り回した蛯原自身の罪も貫いているのではないだろうか。旗揚げを全うすることをいつしか、ともすれば誰よりも早く諦めていた蛯原の狡く、情けない、本当の姿をも。
公演中止のもう一つの真実を目の当たりにして改めて思う。稽古場や劇場の中に、そして外にどんな真実があるのか、どれほどの喜びと、そして地獄があるのか、私には到底分からない。しかし、四角い密室に突如閉じ込められたあの劇中劇の俳優たちは、劇場でそれを目の当たりにする私たち観客そのものでもあったのかもしれない。演劇を消費する以上、何一つが全くの無関係ではないという意味で。
 
リスクを忌避せず、演劇、ないしは業界の明部ではなく暗部を、希望ではなく絶望を、天国ではなく地獄を映した本作である。旗揚げ公演で旗揚げ公演が飛ぶ話を上演。そんな縁起でもないことをやらねば、と思った所以は、きっと名村がこれまで演劇に費やした当事者としての日々に裏打ちされているのだろうと想像する。“四角い”舞台や稽古場に身を置く彼自身が日々感じていること。そんな思考と葛藤がなだれ込んでくるような感覚でもあった。「今、演劇をやること」に懐疑的な視点をも携えながら、それを自らに問い、そして応答すること。正解は分からずとも応答してみようとすること。これが「旗揚げ公演」であることにもやはり大きな意味がある。それは、「ここを描かずして、旗など揚げられるか」といった名村自身の決意であり、覚悟なのではないだろうか。
そして、俳優陣の身体の底から惜しみなく放出されたリアリティにも改めて拍手を送りたい。セリフと本音の境界がボーダレスになっていくのを感じたあの瞬間。「俳優」という性を、道を持つ者が本作の台詞を言う限りそうなってしまうことは、ともすれば宿命の様なものなのかもしれない。同時に、時には自身のこれまでの生き方を切売りするような節もあったかもしれない。それらをあくまで「虚構」として昇華する俳優陣の実力が揃わなければ、それこそ、この「旗揚げ」は完遂しなかった様にも思う。
 
生身の人間が集わないと行えない演劇というものが孕む多くの不可能性。それは、可能性を揚々と掲げることよりも痛く、苦しい時間であったに違いないが、その不可能性を顧みることは今、非常に必要なことに思う。「SHOW MUST GO ON」を叫ぶ演劇は数多あるが、「SHOW MUST “NOT” GO ON」を、その選択を取るまでを描いた演劇は数少ない。クローズドな稽古場とオフィシャルな劇場、その双方で起き得るあらゆる事象に焦点を当て、「されども、ここから」と名村は旗を揚げる。溶暗していく劇場、舞台の上で震える男の肩にその切実を重ねる。私はそれを見届けた。四角い地獄の後に訪れた確かな明転のその中で。
 


 
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